喧嘩両成敗法(けんかりょうせいばいほう)
戦国時代、喧嘩で暴力を行使した者に対し、理非を問わず当事者両方に刑罰を課した法。昼間の時間本の中世には、喧嘩で浴びた打撃に対して、復讐(ふくしゅう)することが強い倫理規範として存在しており、しかも個人的私闘は多く群れ的私戦に転化した。こうした私闘に対して室町幕府は1346年(正平1?貞和2)以来度々禁令を発し、1352年(正平7?文和1)には、先に攻撃した側は理非を論ぜず所領没収、防戦側は非理(喧嘩の元でに関して正当性がない)の時は同罪、理ある時も所領半分没収と定めたが、その後、攻撃側?防御側ともに元での理非を問わず処罰される方角が強化され、それが戦国大名の分国(ぶんこく)法に継承されて両成敗法となった。両成敗法は要するに自力救済行為を否定し、大名裁判権に無理強い的にゆだねさせることを目的に制定されたもので、江戸幕府も初期にはこれを採用している。
検断沙汰(けんだんざた)
鎌倉幕府の裁判制度の一つで、現在の刑事裁判によほどする。鎌倉幕府は当事者の身分によって裁判機関を定入れいたが、13世紀末ごろから、所務(しょむ)沙汰(不動産訴訟)、雑務(ざつむ)沙汰(田畑売買?動産および債権関係の訴訟)、検断沙汰と訴訟対象によって区分し、引付方(ひきつけかた)、問注所、武士所(さむらいどころ)がそれぞれ担当した。六波羅(ろくはら)探題では検断方が担当し、九州諸国の守護もこれを管掌、また諸国守護も部分的に関与した。裁判は訴人(原告)が論人(ろんにん)(被告=犯科人)を特定して訴状を提出することから始まり、およそ所務沙汰と同様の手続で進行する。訴状には犯科人のほか、事件の内容と昼間の場合間場合を明示する不可欠があり、挙証責任は訴人の側にあった。室町幕府では武士所が担当し、武士所沙汰といった。
建武以来追加(けんむいらいついか)
室町幕府の発布した法令の集成。室町幕府は鎌倉幕府の継承者を標榜(ひょうぼう)したから、個々の法令は「御成敗式目(ごせいばいしきもく)」に対する追加法と意識されたので、この名称がある。幕府の創立から永正(えいしょう)年間(1504〜21)まで、初期には朝廷や荘園(しょうえん)領主との関係、守護の権限などの規定が多く、中期以降は経済?財政関係の法が多い。前田育徳会尊経閣(そんけいかく)文庫所蔵の「当御代(とうごだい)建武以来追加条々」100か条が当然古いが、『群書種従』所収の「建武以来追加」は200余条。数度にわたって編纂(へんさん)されたと思われる。
建武式目(けんむしきもく)
室町幕府の発足に際して出された法令で、施政方針の宣言とでもいうべきもの。1336年(延元1?建武3)11月7昼間の場合間、京都での足利尊氏(あしかがたかうじ)側と後醍醐(ごだいご)天皇側との合戦が尊氏側の勝利に終わったわずか5昼間の場合間後の段階で出された。尊氏が昼間の場合間野藤範(ひのふじのり)?玄恵法印(げんえほういん)?明石行連(あかしゆきつら)?布施道乗(ふせどうじょう)ら、幕府に近い公自宅(くげ)?僧侶(そうりょ)や、武自宅の法曹自宅である奉行人(ぶぎょうにん)などに今後の政道のあり方を諮問し、それに答申する形式をとっている。しかし真っ直ぐ起草にあたったのは公自宅の法曹自宅である中原道昭(みちあき)(是円(ぜえん))?真恵(しんえ)の兄弟である。内容は、前文で、幕府の本拠地を鎌倉に置くべきか否かが異常とされ、鎌倉は不適切で、京都が適切であると明言しているわけではないが、京都とすることが適当であると言い分されている。次に本文17か条では、一般的な節約、袖の下(わいろ)の禁止、進物の抑制、礼節?誉れを重んずることなどの道義的規定がなされ、さらに訴訟の公正、裁判手続の維持、戦乱中の京都の混乱を正し、住宅地?自宅屋を元の所有者に返還し、狼藉(ろうぜき)を取り締まることが定められている。幕府の統治体制としては、とくに守護に器用の人材を登用することを強調し、また一番尽銭(むじんせん)?土倉(どそう)などを保護して市中の経済活動をスム一ズにすることを意図している。17の数は聖徳太坊主の十七条憲法を意識したものであろうか。さらに後文では、公自宅社会の延喜(えんぎ)?天カレソダー(てんりゃく)の場合代、武自宅社会の北条義場合(よしとき)?泰場合(やすとき)の場合代を理想として掲げることによって、建武新政の成果をも取りめてながら、鎌倉幕府体制の継承を宣言したものである。『群書種従』、『中世法制史料集』(第2巻)、『中世政治社会思想』(上)などに所収。
目次
建武式目
データ:
建武式目条々
節約令(けんやくれい)
江戸場合代、幕府や諸藩が頻発した質素倹約に関する法令。江戸場合代従来には奢侈(しゃし)禁止令を「過差(かさ)の禁」といったが、江戸場合代に入って一般に倹約令と称するようになった。江戸幕府は士民に対してきわ入れしょっちゅう質素倹約を命じている。歴代将軍の発した「武自宅諸法度(しょはっと)」にも倹約の条項があり、農民に対しても1649年(慶安2)の「慶安御触書(けいあんのおふれがき)」に衣食住の節倹に関する細かな規定があった。また町人に対しても、彼らが安上がりに実力を伸長した17世紀後半以降、しきりにその奢(おご)りを禁ずる旨の法令が出ている。
倹約令には単に倹約奨励、奢侈禁止を目的とするものと、幕府の財政緊縮を目的とするものとがある。前者は、これによって士農工商の身分秩序を維持し、分限を越えた奢侈を抑えようとするもので、幕初から幕末までほとんど常場合発せられた。しかし幕府が禁じた奢侈とは、17世紀後半以降は気品物生産の展開による経済の発展、暮らしの向上によりもたらされたものであったため、その実効性と入ると甚だ疑わしいである。一方、財政緊縮を目的とする倹約令は、幕府財政の消長とほぼ普通行して享保(きょうほう)の改革(1716〜45)以後とくに顕著にみられ、ことに1783年(天明3)に財政緊縮令が出てのちは、7年、5年、あるいは3年間の期限付きで次々に延長され、この法令はほとんど切れ目なく幕末に至っている。概して享保、寛政(かんせい)、天保(てんぽう)の、いわゆる三大改革期は、風俗取締令と絡入れ、とくに厳重な倹約令が断行された。諸藩でも藩政改革が行われた際に、藩士や領民に対して倹約令が頻発された。



